備忘録

遺書代わり

アノミー

「愛情」なんてものが本当にあるのかいつも考えるけど、自分が生まれてきたのは愛ゆえだということを振り返ると、自分自身こそが愛の証明だなんて皮肉だな。と思う。

見返りを求めない本当の愛情を見つけたい。それが本当の愛情なのかも分からないまま。

どうして愛しているのに見返りを求めてしまうんだろう。その時点で愛情じゃないのか?じゃあ愛情とは何だ?俺は今まで誰も愛してこなかったのか?愛したことに対する見返りを求めることは罪か。裁かれなければならないのか?これだけ愛しているのだから、こうして欲しいと思うのは間違いか?わがままか?ならただ相手を受け入れるだけの感情が愛か?自発的な感情じゃないのか?

自分は受けた愛情に見返りを返したいと思う。自発的に思う。これこそが愛か?これは恩か?ただの情か?感謝か?愛情はどこにある?受けた愛情というのは愛情なのか?見返りを返した時点で愛情じゃなくなるのか?大事な感情なのにそんなにも移り変わるのか?尻軽な愛情も愛情か?どこに宿る?もうわからない。わからない。ずっと考えているけどわからない。

「大切に思って失いたくない」という想いが既に悲しさを含んでいるとは思わないか。

いつの日かたしかに分かり合えた何かも、全部嘘だ!って言い切れたら俺は簡単に前に進めるのに。

 

 

わからない。わからない。

アイロニーでは伝わらないこの想いはどこへ消えていく。

 

 

 

 

 

 

愛することと傷つけること、継続させることと諦めることは同じくらい覚悟と勇気が必要だと思うし、そう思っていて欲しい。

惰性が一番簡単なんだ。惰性で生きて、惰性で愛して、惰性で続けて、惰性で傷つけ、惰性のままに生活する。惰性に胸焼けしそうだ。

「少年はナイフを握って、少女はペニスを握る」ってのは本当にその通りだな。感覚的には俺はナイフとLPを握りしめて生きている。

 

 

音楽が好きだし音楽に救われたと胸を張って言える。間違いなく音楽がなければ俺はとっくの昔に自殺していた。

「みんなの中には入れない」し、「自分の中にもみんなは入ってこれない」と気付いたことが、俺と音楽との全てだった。自分以外にもこう考えている人間がいるんだと、感情をアウトプットする手段があるんだと気づけたことは本当に救いだったように感じる。

あとは本だな。意外とみんな読んでないよね。バイブルと言えるくらいのものがあるくらいには読んできた。それもきっと救いだった。

 

 

 

昨夜は何にもやる気が湧かず結局22時くらいには薬を飲んで眠ったけどやっぱり夜中2時くらいから中途覚醒が酷かった。薬に対する耐性みたいなのが出来ているのかなあ。お酒を飲みたいと今日はずっと思っていた。頭がおかしいんだから、内臓も壊れて欲しい。

それでも今日は昨日とかに比べるとかなり気分がマシだ。代わりにひどく攻撃的な気持ちにもなっていて、なんというかちょうど良い気分にはなれないもんかなぁ。

仕事は相変わらず研修で座学のようなものだ。しんどくはないが面白くもない。順応できるかなあ。今日はどうしようもなく我慢できずにビールを買って帰った。しらふではいられないけど、500ml缶2本をすぐ飲み干せる自分にも辟易するなぁ。アルコールが入って落ち着く自分に嫌気がさす。

 

 

 

 俺はよく”人間”になりたい、と思う。いつかのブログでも書いたけれど。自分は正常じゃない、という感覚がそう促す。

俺の「人間に擬態したい」という欲求はたぶん分からない人間には一生意味が分からないし、分かる人間にはチリチリと身が焼けるほどに分かるんだろう。でも欲求と呼ぶには渇望が足りなくて、それにすら劣等感を覚える。

 

 

 

 

 

みんなはなんで生きているんだ?呆気なく過ぎ行く愛した人や物に何を期待している?

俺の精神性はもうアノミー状態だ。