備忘録

遺書代わり

どうとない記憶ほど切なく蘇る

こんなにも心を許せる人がいないんだな、と思う。今日も悲しいことばかりだけど、悲しいことに逃げ込んでいる自分にも嫌気がさす。

 

 

自分の感情のコントロールがうまくいかない。ちゃんと前を向けているときもあるが、どうしようもなく死にたいときもある。

 

死にたい人間は経験あるかもしれないが、たまに死にたいと検索窓に入れて検索をする。

別に特に意味があるわけでもない。同じ境遇の人を見つけて共感したいわけでもない。死にたいという言葉を吐き出す場所がなくて、検索窓に打ち込んでしまうだけだ。

 

まずはこころの相談ダイヤルが出る。自分はかけたことがないが、これにかけて何か解決するとは思えない。こういうのはともかく相手の話を聞いて感情を吐き出させるのが目的で、それとなく心療内科に勧めるものだ。だからといってこの活動を批判するつもりはない。死にたいと吐露する人たちの言葉をただただ聞いて応答するなんて、自分だったらどれだけしんどいか想像に難くない。効果がどれだけあるのかわからないが、こういった活動に従事できるだけ本当に頭が下がる思いだ。

 

 

次に宗教じみた観点から自殺を否定するような内容のサイトが出る。とても見れたものじゃない。この世が地獄だから自殺しようとしているのにあの世が地獄だと言われてもだからどうしたといった気持ちでいっぱいだ。

 

 

その次に楽な自殺方法を謳うサイトが出てくる。上のような結局のところうまくいかないからやめとこうといった内容に落ち着くか、もしくは本当に難易度を書いてくれていたりして関心して読む。結局のところ、怖いのは生き残ってしまうこと(それに伴う次の自殺の難化と副作用)と、どれくらい人に迷惑をかけてしまうか、成功率が大事だ。

色々鑑みたら結局高いところから飛び降りるか、首吊りが安定するそうだ。酔っ払って薬を飲んだら飛び降りれるだろうか。

 

 

その次に出てくるのは自分と同じように苦しんでることを綴ったブログとかだ。数年前に更新を途絶えたものなども多い。うまく社会に復帰できたか、本当に自殺できたのかはわからない。ものすごく共感することもあれば、自分に酔っているだけだな、悲劇のヒロインを気取りたいだけだな、と思うときもある。自分はどちらなのだろうか。

 

 

 

新幹線の中で缶ビールを飲んだ。350ml缶は相変わらず数分で飲み干してしまってすぐに車内販売の缶ビールを追加で買った。どうにもお酒とタバコを入れていないと落ち着かなくなってしまったな。

 

家に着いて落ち着かないし疲れてもいないから街に出かけてみた。まだこういう精神状態になるからマシなのかもしれない。渋谷から原宿にかけて歩いてみたけど改善するどころか、嫌な想像がフラッシュバックしてきて涙が出そうになった。

薬を飲もうかなと思ったけどアルコールを入れてしまっていたことに気づいてやめた。欲しかった靴とは違う靴だが新しい靴を一足買った。どうにもすっきりしない。今までお金を使ったら少しすっきりしてたんだけどな。

 

自分の気分と行動の差異にくらくらする。結局自分はどうしたいんだろうか。前を向けているのか?だとしたら時々フラッシュバックするこの自殺願望や過去の嫌な記憶をどうにか消し去ってくれないものか。

街を歩いていると思い出すことが多すぎる。思い出が邪魔なんだ。確かに幸せだった頃の自分がいる、というのが何よりも自分を苦しめる。

 

 

プロスペクト理論というものがある。

喜びも悲しみも増えれば増えるほど、感応度が下がるというものだ。

もうひとつ、プラスよりもマイナスの感情の方が強く感応してしまうという理論らしい。言ってしまえば、良いことと悪いこと同じ数だけ起こったなら必ずマイナスの感情が勝るということだ。人生は必ず後悔するようにできているのかもしれない。

 

 

いつか笑い飛ばせる日は来るんだろうな。それはわかっているんだ。みんなも言うように、自分でも知っているように。

それでも、それまでの間がどうしようもなく辛いのだとしたら、耐えられないのだとしたら。少しずつ蝕まれている感覚がある。

今日も今日とて不安と死にたいの間で揺れる。

この3日間くらい思考がふらふらしていて文章もまとまらない。

 

 

 

それでも今日はバラエティ番組で笑えたからきっとマシだ。

SNSを見てどうしようもなくなったから、抗不安薬を飲んでみた。不安な気持ちはたしかに消えたけど、頭がフラフラしてとても立っていられなくなった。

安心感とともに、これとお酒で俺は死ねてしまうと少し憧憬を抱いた。

 

 

 

 

もう少しで花火の季節が来てしまう。

花火なんかより人と人との関係の方がよっぽど儚いな。