備忘録

遺書代わり

自己否定の自己肯定

みんなそれぞれ幸せになりたいだけなのになぁ。どうしてこうも上手くいかないんだろう。人と人。どこまでいっても煮詰まり続ける。それぞれがきっと最低な気持ちを抱えたまま前に進んでいる。

 

 

今朝は明け方まで騒いでいたから6,7時に家に着いた。あんなに眠かったはずなのに、いざベッドに入ると全然眠気が来なくて、睡眠導入剤を飲んだ。最近は抗不安薬で寝ることが多かったから久しぶりだったな。やっぱりすごい効き目で、飲んですぐに頭が重くなっていく。睡眠導入剤は、眠くなるというより頭の奥の方のスイッチが無理やりオフにされるような感覚に似ている。ちょうどパソコンの強制シャットダウンみたいに。

 

 

 

 

今日はのんびりと考えていたけど、死にたい人自殺願望の強い人は自分を客観視・俯瞰視できていないのかもなぁと思った。これは自分もそうだし、他の死にたがりの人もそうである人が多いのだが、他人の「死にたい」には意外と同感しても共感しないことが多い。それに自分は死にたいと思っているのに、身近な人が死にたいと嘆いていると悲しいし、生きていてほしいと思う。これは本当で、なんでそんなこと言うんだ長く生きてほしい、なんて自分を棚に上げて思ってしまう。

だから人間には生きる価値があると思うし、若い人はいつだってやり直せるんだからもう少し生きればいいのにと思えるし、世界は素晴らしくて人生は美しいと思うけど、ただし自分はそこには含まれてない。

 

 

つまり自殺願望の強い人は、「”自分を除く”すべての人間には生きる価値がある」と思えているんだ。そして当たり前に生きる価値があると思う人間一般に対して自分は生きていく価値がない、という理論で死にたさに繋がっていく。

他の人間が当然として持っている価値が自分にはない、という自己否定に逆に自己肯定を感じているのかもしれない。だから自分以外にその価値を失っている人を否定したいのかもしれない。

つまり、自己否定の殻を被った自己肯定だ。不幸にアイデンティーを感じているんだ。

そう考えるとなんて薄汚く醜い自己否定だろうか。

五十嵐隆が不幸は甘い蜜だと歌い上げたのはそういうことなんだうな。

 

久しぶりに考えいたことを言語化してみたけど難しいな。うまくできなかった。またもう少し考えてみよう。

 今日はプリン買って帰ろうかなあ。

 

 

 

 

カビ臭い部屋に寝転んで、世界が終わるのを夢想する。

 

 

 

のんびり歩いていくよ。それでも時間だけは過ぎていく。

ゆっくり時間流れろ。ゆっくり時間流れろ。