備忘録

遺書代わり

春を売る、春を買う。

孤独過ぎると孤独だってことにすら気付かないんじゃないかな。ぼんやりと思う。

不良になるためには良い人間にならないといけないし、家出するためには家に住まなきゃいけないし、良心が痛むためには良心がないといけない。孤独になるためには誰かといなきゃいけないんだと思う。孤独になるために人といる必要があるなんてアイロニーだ。

ワニの死を悼むことができる人たちも、電車を止めた自殺者には舌打ちしている。

日本が銃社会だったら銃乱射事件多そうだなんて思ったりもする。少しだけ用量が増えた入眠剤を片手に。

 

 

心と身体を切り離す。自分を保つために。

それで自由になれたのかな。

どうせ心からも身体からも逃げられないのに。

 

身体を売り歩く彼女らと、心を売り歩く俺は、どこが違うんだ。何にも変わらない。物質主義が貫通した愛を買うため。極めて即物的な愛が欲しいだけ。

彼女らの偽善的な笑顔と俺の偽悪的な笑顔は紙一重だと思う。

 

だから俺は言ってあげなきゃいけなかった。

自由はなにかを成し遂げるための手段であって、目的になってしまってはいけないのだと。

 

嫌いな季節が増えるけど、

目黒川沿いの桜を見ていると、せめて春を好きなまま死にたいなと思う。

 

クレイジー

とある人に首ったけであったり、何かに夢中になっていることを英語で「crazy for 〇〇」というが、これはめちゃくちゃ的を射ている表現だと思っている。何かに熱中にしている人、誰かを好きでたまらない人、のめりこんでいる人、分別がつかない人はみんな狂っている。
狂っていると聞くと、病的ななにかを感じて重く思えるが、やっぱり脳がまともじゃない、冷静じゃない時点で十分狂っていると思う。


なにかに狂っていく人の気持ちは痛いほどよくわかる。
だからどうしたら目を覚まさせてあげられるんだろう、と考える。
けど、きっとそれはお節介で、狂っているとき本人は信じられるものがあるときなんだ。
別に、狂っているときが幸せだとは思わない。そう言いたいわけじゃない。(幸せなこともあるだろうけど)
自分の信じたもののために狂っている姿は醜くて、汚くて、目を瞑りたくなる。
それでも信じれるものがあることはいいことだと思う。

 


あぁでも、お節介だとか信じられるものがあるだとか言っていたけれど、自分を思い返してみると狂っているときは頬を引っ叩いても目を覚ませてほしい。
自分は正常じゃないという自負で自分を成り立たせる。


最近はまたよく眠れなくなった。
少し寝つきが悪くて、夜中に何度も目を覚ます。嫌な夢を見る。
食欲は少し落ちたかな。人と会うエネルギーも少しずつ枯渇してきた。
お腹はすくけど、食欲がない。
胸にあるぼんやりとした黒い塊を消化するために抗不安薬を飲む。
アルコールでもどうも上手くいかないんだ。


風がぬるくなってきた夜の街を歩いて、吐き気がしそうなほどどん底の自分の状態をぼんやりと俯瞰する。
「もういいや」と「なんとかしなきゃ」で揺れている。
狂ってるのかな、狂っているときは例えそれがマイナス方向であろうとエネルギーに満ちるから、そっち方が良いような気もする。


決して癒えたわけじゃないから、消えたわけじゃないから、
傷口をセロハンテープで止めただけだから、簡単なことで痛みが走る。
痛みが自分が正常じゃないことを忘れないようにしてくる。
自分に戻るのは早すぎのかもしれないのたけど、当たり前のように過ぎる時間とか周りの状況に焦燥感を覚える。背中に冷や汗を流して、手に汗握って生きている。
周りの人たちは当たり前のように幸せをつかんで、それなのに俺はまだ地の底で、分からないとか許せないとかぐだぐだと。早く「普通」に戻りたかっただけなのに。

人並みの幸せすら求めるなんておこがましかった。


狂ってないのに、正常じゃない。
焦燥感だけがずっと消せなくて、それにまた焦っていく。
どうしようどうしようって、何に思うでもなくどうしようって。

 

 

 


自分の生き方に分別がつかなくて、とても恥ずかしい。

 

 

冬眠

醜い人間だなと思う。

人に嫉妬ばかり覚えて、楽して、

 

いつなれば俺は俺を許せるのだろうか。

 

 

ほんの少しだけ誰かを嫌いになるとき、その10倍自分を嫌う。

ほんの少し誰かを傷つけてしまったとき、その20倍自分を傷つける。

 

平気なフリをしていると、本当に平気なのかも思ってしまう。

 

誰かに会いたかったな。

自分を見てくれてる人に会いたかったな。

 

自分のことすら自分で認められないのに、笑わせるよな。

少し休むよ、遅めの冬眠を。

 

少しだけ感情に鋭い自分が嫌だ。

もっと鈍く生きたかった。騙されても、騙されても、にぶくにぶくいたかった。

嫌いなもの

悪口の方が盛り上がってしまうのは人の悲しいところだなぁとよく思う。

 

俺は誰かの、なにかの悪口を言っている自分が嫌いだったから、人より嫌いなものが多い自分を受け入れるのに20年以上かかってしまった。

俺はもっと博愛的な気持ちが強いと思っていた。もっと好きなもの、好きなこと、好きな人だらけだと思っていた。

好きなことを話す人は素敵だし、自分もそうありたいと思っていたし、他の人もそうあるべきだと思ってた。

だから、何かを嫌っている自分が許せなかった。

許せないものがいっぱいの自分が許せなかった。

 

自分のことを棚に上げる人が嫌いだ。

責任転嫁する人が嫌いだ。

誰かを裏切る人が嫌いだ。

辛いのが自分だけと思ってる人が嫌いだ。

承認欲求が強い人が嫌いだ。

すぐ人を見限る人が嫌いだ。

他人に好かれようとする人が嫌いだ。

無駄に感情移入する人が嫌いだ。

何かを神格化してる人が嫌いだ。

嘘をつく人が嫌いだ。

自分のことが好きな人が嫌いだ。

嫌いなものだらけの人が嫌いだ。

好きなものを押し付ける人が嫌いだ。

他人を尊重できない人が嫌いだ。

向上心のない人が嫌いだ。

他人を羨むだけの人が嫌いだ。

度量のない人が嫌いだ。

すぐ忘れる人が嫌いだ。

意志の弱い人が嫌いだ。

自制できない人が嫌いだ。

自律できない人が嫌いだ。

すぐ流される人が嫌いだ。

自分を大事にしてくれる人を大事にできない人が嫌いだ。

塞ぎやすい人が嫌いだ。

痛みを知らない人が嫌いだ。

傷つきやすい人が嫌いだ。

人が嫌いだ。

 

 

だから、俺は自分が嫌いだ。

 

 

disorder

久しぶりにパニック発作が起きた。

手が震えて吐き気がする。動悸が止まらない。落ち着かない。手が震える。心臓がバクバクする。寒い。怖い。落ち着かない。

全然理由がわらなくて困惑だ。

ブログ書きたい内容がいくつか書きためてあるから続きを早く書きたい。

 

あぁだめだ手が震える。動悸が止まらない。抗不安薬を2錠飲み込んだから落ち着くといいな。吐きそうだ。

自己否定と自己愛

自己肯定感が薄いから、人にちょっとした特別扱いを受けると背筋がぞわぞわっとして飛び跳ねるほど喜んでしまう。

ほんのちょっとの人の優しさで、自分は特別なんだという安心感が得られる。

 

そのあとで、自分を特別扱いしてほしい、と人の機嫌をとる自分は、人に媚を売る自分はなんて醜いんだろうと自己否定する。

 

けれど、自分の特別視を望む時点でもう、それは自己愛の一種なんじゃないだろうか。

 

好きで嫌いで、嫌いで好きで。

答えのない自問自答を繰り返す。こうやって客観視できてる自分を好きなのかもしれない、なんて自分は気持ち悪いなぁ。

ほらまたぐるぐると。

そういう考えると本当に自分を一方的に嫌いなだけの人は存在しないのかもしれないな。

自分のことを嫌いな自分を認めないと存在できないものね。

自分を嫌いな自分と、自分を好きな自分がいて、自分を嫌いな自分は、自分を好きな自分を嫌っていて、自分を好きな自分は、自分を嫌いな自分を好きなんだろう。たぶん。

 

 

結論は分からないのだけど、せめてこんな自分に優しくしてくれる人には、100パーセントの優しさで返そう。そう思う。最近はまるで別れを惜しむかのように、これで最後かのように、会う人会う人抱きしめたい気持ちでいっぱいだ。

 

それは、夜、ふと寂しさが喉元を締め付けるから。

「死にたい」は文字にすると軽くなるから、あまり書きたくないからと、それでも書かずにはいられなかった日々は本当にしんどかったんだろう。冬の重たい空は感傷を蓋して平坦化する。感情は突き抜けないくらいがちょうどいい。

 

 

 

街を歩くと存外みんな笑顔じゃないことに少しだけほっとする自分がやっぱり嫌いなんだ。

 

 

 

だから、誰かが、俺とお酒を囲むときは嘘みたいに、バカみたいに笑っていてほしい。

 

ロジカル

過去の自分のブログを見返していると、かなりシニカルでロジカルな文章が目につく。

どちらかというとそういう方が自分の根っこに合っていて読みやすくて好きで、最近の文章はまとまらないまま感情をだらっと書いてるだけのものが多いなと感じた。

 

でもそれは、考える時間が減ったということだろうと思う。

以前は、頭がおかしくなるくらい考えて考えて、まとまらなくてショートしそうになるくらい考えて、嫌なことを想像して、吐きそうになって、それをどうにかガス抜きするために、熱を冷まして頭をスッキリさせるためにロジカルな文章になっていたと思う。

今は、良くも悪くも毎日に磨耗して、ゆっくり考えられる時間が作れなくて、突発的に沸いた黒い感情を、アルコールと薬に任せて書いているだけだからつまらない文章になっていたと思う。

 

いやきっと、精神状態としては、一時的な感情の爆発だから後者の方がマシで、余計な考え事しなくて済むような日々の方が幸福だろう。考えることは大事だし好きだけれど、以前のような、鬱蒼とした森を歩き続けていたような精神状態が良かったとはとても言えない。自分の中のフィロソフィーは減ってしまった気がするけれど。

 

 

あとは、自分のエネルギーとか、自分の資源とかは自分のために使おうと決めて少し荷物を下ろしたような感覚になった。

未来に進んでいるけれど、未来のことを考えるのを少しやめたような気がする。後先なんて考えられるような余裕のある人間じゃなかったんだ。もう少しだけ欲に素直に生きて行こう。

 

好きなこととか、好きなものとか、やりたいこととか、そういうのが楽しめているから本当にマシになってきたんだろうなぁ。

それに合わせて後先考えない脳みそが合わさって、少しお金の使い方が雑になってしまったけれど。

 

今日は久しぶりによく考えた。寒くなくて外が歩きやすかったな。寒い方が好きだけど。

人の本音が見えるようになればいいのに。いや、残酷過ぎるかな。

仮初の笑顔と、偽善的な愛情の奥が見てしまいたくなる。怖いのに。人の表面を見て、裏側を想像する自分が1番醜い心を持っているんだろうな。機械みたいな声で、簡単に心が揺らいでしまうから、マシになってると言ってもまだまだ弱々しい心で、根っこが腐ってしまったから立て直すのにはもっと時間があるんだような。

 

ずっとまどろんでいたい。

人は名前をつけないまま、少し歪んだ関係に安心してしまったりする。

実験動物に愛着が湧かないように名前をつけないのと同じなんだ。

 

 

今日の缶ビールは薄く感じた。

外があまり寒くなかったからだろうな。