備忘録

遺書代わり

都会の寂寞

夜の11時ごろに銀座の街を目的も行き先もなくぶらついた。

心地よく歩いていたが、無機質に大きなビルと無意味に幅広の道路がふっと自分の孤独さが急に際立たせ、都会の寂寞感に囚われた。

 

 

数年前に東京の街に出てきたとき自分は、東京に出てきただけで大きくなれると、大人になれると思っていた。

でも自分が変わっていないという訳ではない。

自分はきっと変わった。

 

街も景色も周りの人も変わる。でもそれと同じスピードで自分も変わっていて、やはり特に物の見方が変わっていくのだと思う。

小さな頃は街の小さな居酒屋なんて目に入らなかった。ずっとそこにあったって。

電車の中の小さな子どもが煩わしく感じていたのに今では愛らしく感じたり。

どうあがいたって変わっていく。それを認められず景色だけが変わっていくと思っていた。

ただ、変化と進化は違う。変わったが成長したかと訊かれたら首をかしげるしか無いなぁ。

難しい。

ごちゃごちゃ書いたけど、要は人も自分も周りも移ろう。それがただの変化か進化かは別にして。そういうことにようやく気づけた。

 

 

 

自分の周りにはありがたいことに経験主義の人が多いように思う。

何事も経験してみてから判断するべきだと思うし、そう思ってる人が多いことは良いことだなぁと漠然と思っている。実際に経験したこともないのに、机上で批判や崇拝することはやはり良くないとも。

良く言えば固定観念に囚われてないんだ。

経験してないのに、これは良くない、あれは悪いことだと決めつけるのには説得力がないし、そういう人には魅力が無いと思う。(魅力≒説得力だと思っているので。)

自分もこれまでそういう考えでいた、つもりだ。

何事も経験すべきで、その上に論評すべきだと。

 

 

違った。いや正確には自分は経験に基づいて判断してるのではなくて、経験に基づかなくては判断できない馬鹿な人間であった。

例えば、どれだけ経験してなかろうと、人を殺すことは悪いことだと分かるわけで、それすら経験してみないと分からないというのは経験主義ではなく、考えることを放棄した頭空っぽの馬鹿だ。

 

要は経験を以って判断するという動作の前にそれぞれに主義主張考え方が存在し、その中で経験を判断するんだ。

その主義主張がすっぽり抜けている人が多いことに気づいた。

それは単に何も知らないだけのバカだ。

判断をするための主義主張があり、対象となる経験があり、初めて正当な評価批評ができる。

俺は主義主張がない、バカなだけだった。

 

理由なんて探すのはもうやめよう。

 

 

 

おそらくこのブログでも何度か書いたが、幸福は麻薬だと思う。

一度心地の良い幸福を味わってしまうと人間はやめられなくなってしまう。

大金を手に入れる爽快感、恋人と一緒にいることの安堵感、友人と飲み会う開放感、、、etc。

そのどれもが幸福な瞬間で、タバコよりもアルコールよりも薬物よりもきっと中毒性があるんだ。

あの幸福感が得たくて、ギャンブルに手を染めたり仕事を頑張ったり、別れてすぐ恋人を作ったり、別れ際の恋人に何度もしつこく迫ったり、日がな友人と飲みに行ったり、何度だってしてしまう。

あの刹那的な幸福を何度も味わいたくて。こんな中毒性があるものは幸福以外にない。

タバコやアルコールを摂取している時にだけ幸福感があるように、幸福も刹那的な感情で決して長続きしない。

 

だから慣れてしまった恋人の関係、だれてしまった友人の関係にみんなその刹那的な幸福を得づらくなってしまって、次から次へと。新しく刺激的で刹那的な幸福を求めてしまう。

あつあつのお風呂が気持ちいいけれど、長くは入っていられぬように。

でも俺は決して悪いこととは思わないよ。

 

目の前にぶら下がった人参を求めて走り猛る馬のように今日も瞬間的な幸福を求めて誰かとともにいる。それを繰り返すが人生かな。

しんどいなぁ。それでも俺は幸せになりたいと思う。

惰性の幸福はいらないという人も多いが、自分はぬるま湯のような幸福が欲しい。

 

 

 

 

胸張って生きて欲しい。

幸福とは絶対的な価値観なのだから、その人が自ら手に入れた幸せは、たとえどんな形であっても他の誰も文句言う筋合いなんてない。その人のものだ。

胸を張って行きて欲しい。